ロッカーズ、その発祥の地はイギリス、それは遠く50年代に逆上る
ロックを愛し、オートバイを愛した若者たちは、社会的に疎外されていた当時の
“暴走族”のタンナップ・ボーイズたちの後の姿でもある
さらに歴史を探れば、社会的に問題となっていた"ロッカーズ"のその後の成長に、
ひとりの神父さんが関わりあって今日を迎えているのである

揉み上げが見事なロッカーズ。 走る気が満々の若者達。 自作のサイドカーを先頭に大行進するロッカーズ。

OLD QUEENS HEAD/クイーズ・ヘッド、イギリスにおいては典型的ともいえるロンドンはイズリントンのエセックスロード沿いにあるパブだ。普段は近所のローカルな人間しか訪れないこのパブも、金曜の夜だけは、まるで'60年代にタイムトリップしたかのようなあり様を呈する。9時頃から続々とTRIUMPH, NORTON, BSA, ARIEL, MATCH-LESSなどの、まず日本ではなかなかお目にかかれない名車と共に、ルイスレザー、マスコットなどの英国製ヴィンテージジャケットで身を固めた“ROCKER/ロッカーズ”達が集まってくる。彼らは一様に、レザージャケット独特の.艶やかなまでに光る黒色が負けてしまうほど無数のシルバースタッド、ピンバッヂ、ワッペンを付けている。中でもひと際目立つのは、彼らの背中、腕に刻まれた数字“59”のワッペンだ。その光景は圧巻で、我々日本人がまさに映画や写真のシーンでしか見られない光景であり、決してファッションではない“本物”なのである。
パブが終わる11時頃、ロッカーズ達はユニフォームともいえるライダースジャケットに'首に巻いた白いスカーフ、スタジアム、アビアキット、また現在では帽子などで有名なカンゴールなどの'60sヴィンテージヘルメットにハルシオンのゴーグルをつけ、パブの)前に停められている各々のバイクに向かう。そしてバイクにまたがり、儀式ともいえるキックをマシンに与え、エンジンに火を入れる。そこにはまるでレース前のような緊張感があり、誰が合図するわけでもないが、皆のバイクのエンジンが動き出したのが確認されると、レースさながら一斉にスタート。ウエストエンドを抜け、チェルシー・ブリッジヘと闇を切り裂く爆音と共に走り去っていく。

勢ぞろいして意気揚々たるロッカーズ。

ロッカーズの前身はタンナップ・ボーイズとコーヒー・バー・カウボーイズ
映画 『The Wild One』 のモデルとなった'50年代の若者達は、アメリカ、カリフォルニアのホリスターでオートバイに乗って暴れていた連中だ。一方、その頃のイギリスのオートバイ乗り達は熱心にイギリス製バイクを磨き、おとなしくスタンドでガスが満タンになるのを待っていた。
これは'50年代のアメリカとイギリスの光景だが、イギリスで『The Wild One』に出てくるような映画に影響された若者を見るのは、それより2〜3年も後のことだ。名前も、単なるバイカーから“COFFEE BAR COWBOYS/コーヒー・バー・カウボーイズ”や“TON-UP BOYS/タンナップ・ボーイズ”へと変わっていった。
“COFFEE BAR COWBOYS”とは、コーヒーを飲みながらバイク自慢をし、即席の公道レースを楽しむ若者達のことである。こぢんまりとしたカフェによく集まっていたことから、カフェの常連達にそう呼ばれた。世間はまた彼らを、“TON-UPBOYS"とも呼んだ。これは“DOING THE TON”から派生している。英国のスラングで時速100マイルで走るという、意味であり、つまり時速100マイル以上で走る若者達という意味で呼んだのだ。
このカウボーイ達は当時、世界でも最高峰を誇った英国車、TRIUMPHやBSA, NORTONという金属製の馬にまたがって、縦横無尽にロンドンの街中を駆け回っていた。彼らの名が示しているように、彼らの目的は、いかにカッコ良く、そして自分のマシンの性能を上げるかということと、何より公道レースに勝つことだった。だからある意昧では、スタイリッシュな若者達というよりも、より硬派なスポーツマンであったし、彼らのプレーンで実用的、そしてその機能的なバイクのスタイルは、'40年たった現在まで引き継がれ、当たり前のように我々の中に溶け込んでいる。

世界中の若者達に影響を与えた勇士。 B.R.M.C.はBlack Revel Motorcycle Clubの略。

そんな彼らのスタイルの基本となったのが『The Wild One』で“反抗”の象徴となったマーロン・ブランドなのである。暴走族映画のはしりとも言えるこの映画は、'53年の暮れにアメリカで上映されてから約10年間、イギリスでは若者達に悪影響を及ぼすということで公開禁止だった。にも関わらず、マーロン・ブランドがパーフェクトのレザージャケット、ジーンズ、ブーツ姿で写っているポスターやスチール写真は、またたく間に若者の間で話題になった。しかし当時のバイカー達にとって、映画の中で彼が着用しているアメリカ製ジャケットを買うのは到底無理な話だった。LEWIS LEATHER社やPRIDE & CLARKE社のような英国のレザーウェアメーカーがオリジナルジャケットの生産を始めたのだが、それでも労働者階級の若者達にとっては相当高価なものであった。それで大半のバイカー達は安いP・V・C(合成皮革)製のジャケットに手編みのセーターをはおり、英国製ジーンズ、白い厚手のソックスをブーツの上に折り返し、純白のストールをなびかせて走り回っていたのである。
'50年代半ばのイギリスは、男性は年齢に関係なくスーツを着るのが当然と思われていた時代だった。何よりも、保守的な伝統、神聖な秩序を重んじる英国において、その映画、そのスタイルは、暴力の象徴とされ『ROCKERS!』の著者ジョニー・スチュワートが、彼の著作の中で“LEATHER CLAD/レザーを身にまとう"と呼んだように、世間からは秩序を乱す者=不良達のユニフォームとして見られるようになってしまった。
少教ではあったが“TON-UP GIRLS"と呼ばれていた女の子達もおり、彼女達はジャケットにブーツという男女差のまったくない格好をしていた。これは世間にかなりのショックを与えることになった。スタイルはもちろん、夜な夜なタンナップボーイズを目当てにカフェに集まる女の子達、そして公道レースに開け暮れる若者達の行動は社会問題となり、国会で話し合われるまでとなった。

自慢の英車に跨り盛り上がるロッカーズ。 英車に混じって日本車のホンダも見受けられる。 妖艶なTON-UP GIRLS達。

ジュークボックスにコインを入れる
曲の終わる前に戻って来るレース

しかし'50年代半ばから'60年代初頭にかけてタンナップボーイズと呼ばれていた若者達の行動はさらにエスカレートしていき“ROCKERS”へと進化していくのであった。バイク談義に明け暮れ、いかに愛車を速く走らせるか、そしてナンパとジュークボックスに情熱をそそいでいた当時のロッカーズ達。彼らのたまり場として数あるカフェの中でも、ロンドンから有名なレース場のブランズ・ハッチに向かう道路であるA20沿いにあった“JOHNSONS CAFE/ジョンソンズカフェ”“NIGHTINGALE/ナイチンゲール”ワットフォードの“BUSY・BEE CAFE/ビージービーカフェ”やロンドンの北環状線、ノース・サーキュラー・ロード沿いにあった“ACE CAFE/エ一スカフェ”等が有名だった。中でも、エースカフェは彼らロッカーズ達にとってはメッカともいえる場所であった。

伝説のエースカフェにたむろうロッカーズ。 その後'69年に営業を停止するエースカフェ。

エースカフェは当時ロンドンでも唯一の24時間カフェということで、もともとトラック、キャブ等の運転手が利用していた。だがいつの時代でも同じで、深夜営業のカフェは、しだいに若い連中の格好のたまり場となり、カフェの前のノース・サーキュラー.ロードは、彼らのレースサーキットとなり、夜な夜な公道レースが繰り広げられるようになった。カフェの中にあったジュークボックスにコインを入れ、同時に表に駆け出してバイクのエンジンをかけ、スタートする。カフェの前のノース・サーキュラー・ロードを通り、少し南に下った所にあるラウンドアバウト(ロータリーの十字路)を回って、いかに一早く、曲が終わる前に帰ってこれるかという、かの有名な“ジュークボックス・レース”を行っていたのである。
このレースコースは、どんな整備されたサーキットよりも彼らにとっては刺激的だった。ジュークボックス・レースを見るために、またエントリーするために、ロンドンはもちろん、イギリス中からロッカーズ達が集まり、エ一スカフェの前のみならずノース・サーキュラーの沿道を埋め尽くしていた。
しかし不幸にも、レース中に命を落としたロッカーズ達も少なくなかった。当時はヘルメット着用義務もなかったことから、そのほとんどがノーヘルで走っていたのである。彼らはバイクと一体となり、常に死と背中合わせになりながらスビードの限界に挑戦していた。そういったこともあり警察の取り締まりも厳しくなり、夜間の走行はそれまで70マイルだったものが40マイルに、また彼らのバイクの車検、タイヤ、チェーン等のチェックが盛んに行われるようになった。
このあまりにも有名なカフェは、映画『THE LEATHER BOYS/レザーボーイズ』 『HELL-DRIVERS/ヘルドライバー』等の舞台となるのだった。

神父服の上にルイス・レザーをはおる
ファーザー・ビル・シャーゴールド氏。
バイクとロッカーズに囲まれて豪快に笑う
ファーザー・ビル・シャーゴールド氏。

トライアンフに乗る神父さん
ファーザー・ビル・シャーゴールド

'60年代初め、ひとりの聖職者が不良達のたまり場と化していたエースカフェのドアを開いた。彼はどう見てもこのロッカーズがたむろするカフェには場違いであり、歓迎されるはずもなかった。
案の定、若者達は彼を邪魔者あつかいするのだが、トライアンフ・スピードツイン500を愛車とし、神父服の上にルイス・レザーのブロンクスジャケットをまとうこの風変わりな聖職者が、若者達の中に溶け込むのにそう時間はかからなかった。
最初はその奇妙な身なりから若者達にいぶかしがられたが、持ち前のユーモアセンスと、人当たりのよさ、また自らもバイクマニアであることが功を奏した。何よりも聖域にいる彼とは正反対であるはずの社会の反逆児、ロッカーズ達の味方になり、時には良き相談相手となったことから信頼を受けるようになったのだ。
若者達は、彼を“SWING-ING VICAR/いかした神父”と呼んだ。たちまちのうちに彼は若者達の人気者となっていった。
彼こそが英国教会の神父でありユースクラブ“59/FIFTY NINE CLUB”の創始者であるファーザー・ビル・シャーゴールド、その人であった。
当時、バイカー達はイギリス国内はもちろん、ヨーロッパ中のユースクラブを回りながら旅していた。自らバイクマニアであったファーザー・ビルは、若いモーターサイクリストに暖かい場所と行き場を提供するため、'59年にロンドンの東、ハックニーにユースクラブを創立した。そして当時、社会問題にまでなったロッカーズ達の集まる様々なカフェに顔を出し、若者達との交流を深めようと図ったのだ。不良のレッテルを貼られていた彼らのバイクを通しての教育、更正を考え、'62年5月にはエースカフェとビージービーカフェにおいて、ライブ、ダンスパーティー、チャーチ・サービスを含めたイベントを行うまでになっていた。
ノース・サーキュラーでの若者達の死は、マスコミの格好のエジキとなり、夜な夜なスピードに開け暮れ、即興レースで悲惨な結末を招く若者達という芳しくないイメージが世間に根付いていた。その社会的バッシング“バッド・バブリック・イメージ”を取り去るべく、ファーザー・ビルは新聞社や雑誌社に乎紙を送って実情を訴え続けた。'62年の1年間は、若者達の理解と教育に時間と情熱を費やすことになる。その年10月、モーターサイクルセクションを発足。世間より非難されていた若者達、ロッカーズ達のために彼の教会のドアを開いたのだ。
ひとりの神父による更正の話題は徐々に評判となり、ジャーナリズムに取り.上げられるようになった。そのひとつ、デイリー・テレグラフ紙は、ツーリング前の礼拝に参加するロッカーズの姿をとらえ、彼らがファーザー・ビルの立つ祭壇の前で安全運転を祈願していると報じている。

これらのニュースによってクラブの名はまたたく間にイギリス中に知れ渡った。当初50〜60名だったメンバーがこれを機に、週ごとに何100人という単位で急激な増加をみせ、ロンドンはもちろんイギリス中からロッカーズ達がファーザー・ビルのもとへ集まったのだ。ものの1〜2年の間になんと7千人ものロッカーが加入、当時では世界一のモーターサイクルクラブにまでなる。彼らロッカーズ達にとっては、59のワッペンをつけることが最高のステイタスになった。黒地に白で59と書かれたそのワッペンは、もともとはユースクラブの布のペイントだったものを、中の59の部分を切り抜いて腕に付けたのが始まりである。

映画のワンシーンようにツイストを踊るロッカーズ。

その後、教会はハックニーよりロンドンのほぼ中心にあるパディントンに移り、ここでクラブは最盛期を迎えることになる。
毎週土曜日の夜を59CLUBのミーティングの日として教会を解放。メンバー達にとって、そこは最高の情報交換の場となり、時にはロックンロール、ロカビリーバンドによるライブ、ダンスパーティ等も催された。また時にはメンバー達のバースデーパーティーや結婚式の場として、ファーザー・ビル自ら彼らのため祝い、祈りを捧げた。
教会が終わった後、メンバー達はマーブル・アーチを抜け、ハイドパーク横のパークレーンを通りながらテムズ川にかかる橋、チェルシー・ブリッジを目指してバイクを走らせる。100台を超えるバイク達は、互いに競い合い、爆音を轟かせたものだった。信号待ちの際には、レースさながらに皆が一列に並んでアクセルをふかし、ブルーのシグナルと同時にスロットルを全開にしてチェルシー・ブリッジに向かって走って行った。その後は、各々のローカルであるエース、ビージービー、ジョンソンズ、テッズ等のカフェに散って行ったのである。
当時、彼らにとってロンドンの町全体がレースサーキットそのものだった。今では若者達にとって当たり前のようになってしまったドラッグだが、彼らにとってはスピードがドラッグであったのだろう。
往年のロッカーズは、今でもこの頃のことを口にする「最もエキサイティングな時代だった」と。

フルカウルを装備して勇ましく疾走するトライアンフ。 このシーンを再現するのは困難な程の名車達。

なくてはならないトライアンフ、BSA
誇り高き英国車

もともとタンナップ・ボーイズ、ロッカーズのムーブメントは、冒頭でも述べたように、アメリカの良き時代、伝統や秩序にとらわれない姿に怖れ、影響を受けた若者達がそれを英国スタイルに変えたものである。
『The Wild One』でのマーロン・ブランドのスタイルをコピーするのは、当時の若者達にとっては至難の技だったが、ひとつだけ100%コピーできるものがあった。マーロン・ブランドは、映画の中でアメリカが誇るインディアンやハーレー・ダビッドソンではなくトライアンフに乗っていたのだ。
今や世界一のバイク大国となった日本が、'50〜'60年代にかけて、追いつけ追い越せと目標にしたのも英国車だった。当時イギリスのバイク産業は黄金期を迎えており、数々の名車が生み出された。レース界においても、過去に偉大で華々しい記録を持っていた。若い彼らがその映画の主人公とバイクに憧れたのは当然のことであっただろう。
また彼らはレース界のスターや、そのマシンにも憧れた。マン島のレースで大活躍を見せていたBSA, NORTON, TRIUMPHといったバイクは、ストリ一トレーサーであったロッカーズ達にとって最も人気のある車種であった。だが当然それらを買える身分でなかった彼らは、自らストリート・レーサーを考案し、組み上げていったのである。トライトン製作で有名な“DRESDA AUTOS”のDAVE DEGENS/ディブ・デジェンスや、カスタミングキングと称されるPAULDUN STALL/ポール・ダンストール達も、そういったバイクに憧れる若き'50年代のロッカーだったのだ。そして時代は'50sスタイルより'60s、音楽もエルビスからビートルズヘと変わって行く。

モッズ達にに強く支持されたTHE WHO。 ライトとミラーでチューンされたモッズ・スクーター。

ライフスタイルの戦い
ロッカーズ対モッズ

'64年5月18日、イースター・バンク・ホリデイのブライトン。大勢の“MODS/モッズ"のグル一プが、デッキチェアーを振り回し、ふたりのロッカーズをプロムナードから4〜5メートル下のビーチヘ突き落とした。そして、モッズとロッカーズ達の大乱闘へと発展した。
モッズ達は汚れひとつないポロシャツ、折り口のきっちりと入ったズボンにサングラス姿であった。
一方ロッカーズは無数のスタッドと愛車であるバイクの名をペイントしたが、レザージャケットを身にまとっていた。軟派なモッズ、硬派のロッカーズと対象的な若者の集団として対立していたのだ。
翌日、この光景はイギリスのほとんどの新聞の一面に取り上げられた。イギリスの南に位置する海岸、ブライトンでのこの抗争は、後に映画『QUADRO-PHENIA/さらば青春の光』となっても再現された。
当時、ロッカーズとモッズのいざこざは度々起こっていたが、ブライトンの乱闘事件は過去に類を見ないものであり、決してマスコミによって誇張されたものではなかった。
これはストリートスタイルと若者の文化の歴史において、ある意味、実に意義のある事件であったといえる。あるジャーナリストは、この事件を“スタイル・ウォー”と呼び、かつてない若者達の暴動を、スタイルの違いから起きた争いだと言った。しかし当の本人のモッズとロッカーズ達は、さほどその戦いを重要なこととはとらえていなかった。乱闘を解説するほどバカげていることはないと、若者気質で片づけていたのだ。
今日、スタイルというものは、そのルーツや複雑な意見や信念、思想をストレートに伝える力強い言葉と同様にとらえられている。彼らの表現、すなわちファッションは、その時代の文化、流行に多大なる影響を与えてきた。この争いは、それまでの男らしさの定義をも変えることを暗示していた。当時はロッカーズ'対モッズを“ブルーカラー”対“ホワイトカラー“つまり“オイルまみれのレザーとジーンズ“対“汚れひとつないシャツとしわのないスーツ”と分けていたのである。このようにモッズのソフトなイメージとロッカーズのタフなイメージの違いは、ブライトンの争いによって彼らの社会的地位をも変えてしまったのである。
その後、モッズは流行の主流になり、ロッカーズは廃れていった。もともと“ROCKERS”という名前での歴史は短く、皮肉なことにタンナップボーイズ、コーヒーバー・カウボーイズと対立関係にあったモッズが、ロックばかり聴いている連中という意味で“ROCKERS”と皮肉って呼んだのが始まりである。
タンナップボーイズのスタイルは、いたってプレーンで機能的、ライフスタイルはもっぱら“BURN-UP/レース”であった。ロッカーズは、そのシンプルなタンナップボーイズにプラスしてレザーに愛車名のハンドペイントやメタルのスタッド、そして無数のバッヂ、ワッペンで、アイデンティティーをアビールし、当時のミュージシャン等のスタイルを取り入れた。これには理由があったのだ。'50年代にエルビスによって確立されたロックは、'60年代に入ると、よりソフトな、かつクリアなロックとなった。ロッカーズ達は、ハードなロックを守ろうとモ一ターサイクルカルチャーを利用してロックの砦としたのだ。
しかし、ロッカーズになりきれなかった生粋の走り屋のタンナップボーイズ達は、ロックかぶれのロッカーズとは違う見方をしていた。強烈なデコレーションは、パワフルなマシンに勝るものではないと考えていたし、意外にもロッカーズ達を、馬鹿にしていたのだ。モッズ支配下にあったイギリスのユースカルチャーにおいて、ロッカーズという存在は、かなり目立ったものであった。
しかし例えロッカーズから無数のスタッド、チェーン、バッヂを取り除いたとしても、彼らの中に“ROCK'N ROLL"の魂は生きていただろう。だからこそ'64年の夏、ロッカーズはモッズに立ち向かうために、ブライトンで狼煙を上げたのだ。
だが恋しいかな、時代、流行そして若者のムーブメントは絶えず変わるものであり、その流れには逆らえないものである。その時、ロッカーズはモッズの半数以下、マスコミの言葉を借りれば「ロッカーズは、'60年代の歴史の一部となった」だ。ただ忘れてならないのは、彼らの向こう見ずな行動と考えが、パンクから、ヘッド・バンガーズにまで続く“ロックカルチャー”を起こしたということだ。

チョッパー風のトライアンフ。 公認ではないと云われている背中のデス・スカル。 グリーザーズの勇ましいおねえさん。

エースカフェが営業停止
ひとつの時代の終わり

'69年夏、ロンドン最大の公園であるハイドパークにて“ローリング・ストーンズ”の大規模な野外コンサートが行われ“DOPERS”“HIPPIES”と呼ばれる何の型にもはまらない若者達て埋めつくされた。
ストーンズのメンバー達は、そのコンサートにおいて、場内スタッフとしてロッカーズの流れをくむ“GREASERS/グリーザーズ”を雇った。
グリーザーズとは、モッズが枝分かれして“SKIN-HEDS/スキンヘッズ”等に変化していったように、ロッカーズがより過激化、よりアンダーグラウンド化したものである。ロッカーズが各々の愛車をアピールするかのように、その名を背中に入れたかわりに、グリーザーズはワシやドクロ、そしてナチスドイツの紋章を入れた。バッヂ、スタッドも、さらにエスカレートし、軍隊の記章へ。また角のとれた丸いヘッドのスダッドから、鋭利なまでにとがったヘッドに変わった。彼らは、ロッカーズシンボルともいえるゴーグルにオープンフェイスのヘルレメットとは似ても似つかぬ“SWASTIKA/逆十字”のついたナチヘルで“武装”し、チェーンを振り回しながら、アップハンドルのトライアンフをまるで兵器のように扱う“軍隊”へと姿を変えた。
ストーンズのコンサートで、スタッフであるグリーザーズの手によって殺傷事件が起こり、マスコミ達は、彼らのことを“HELL'S ANGELS"と呼んだ。しかし彼らは決して本物のへルズ・エンジェルスではなかった。ロッカーズが『The Wild One』に出ていた若者達に憧れたように、グリーザーズも当時アメリカにおいて、数多く作られたヘルズ・エンジェスを題材とした『HELL'S ANGELS ON WEELS』や『VIOLENT ANGELS』等の映画の流れに影響されたのだった。
しかし、そのあまりにも虚勢を張った表向きだけのスタイノレが長続きするわけはなく、早すぎるほどの若者達のユースカルチャー、ミュージックシーンによって何度となく変えられていくのであった。
'69年、ロッカーズのたまり場だったエース・カフェも、ついに営葉を停止し、ひとつの時代の幕を閉じる時になっていた


参照文献  ロッカーズ&カフェレーサー(竢o版社)

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