進駐軍モーターサイクルクラブ AJMC (All Japan Motorcycle Club)
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| 初期AJMCプレート | 米兵相手の商店街 | 立川北口大通り |
1947年に在日アメリカ軍立川ベースを中心としたバイク好きのアメリカ兵達が寄り集まって出来たのがAJMCであった。関東周辺には他にもバイク好きのアメリカ兵達が小規模なクラブを作ったといわれているが1950年頃その中でもAJMCは一番大規模なクラブだった。AJMCの母体であるバイク好きのアメリカ兵達は道で出会った日本人ライダーに声をかけてツーリングやイベントに招待していたのだがAJMCに接した日本人ライダーの多くは彼らとこの様な出会い方をしていた。
1947年のAJMC結成当時は主にアメリカ兵がメンバーの多勢を占めていたがその後は日本人のライダーにも門戸を広げるように彼らは努めていた。関東地域の他のバイク好きのアメリカ兵達と共に「全日本オートバイ協会」を作り一時は関東周辺のアメリカ軍基地から150名を数えるライダーがミーティングに集まったといわれる。しかし1950年からの朝鮮戦争発動でアメリカ兵の移動が再び激しくなるにつれて全日本オートバイ協会は主幹格のAJMCの日本名として残り事実上は消滅した。
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| AJMCの溜まり場ババリア | 多摩川の日野橋近くに借りたAJMCのクラブハウス |
JR中央線立川駅から国道20号線の日野橋に向かう途中に「ババリア」というドイツ人経営のレストランがあった。AJMCの最初の溜まり場はこのレストランだった。現在はニッサン系の自動車ディーラーになっていて当時の面影は全く無いのだがこのババリアの前にはちょっとした駐車スペースが有り今でいう郊外レストランの趣きがあった。日本のモーターリゼーションの発展以前のことだから日本人にはさぞかし珍しい店だったに違いない。ババリアのお客の多くはアメリカ人で日本人はほとんど居らずベースの近くでもあり支払いは日本円と共に軍票も使われていた。アメリカ軍立川ベースのメインゲートからバイクで5分位の近さにあったこのレストランはAJMCのメンバーにとって最適の溜まり場で、彼らはこの店にバイクで乗りつけてビールを飲んだり食事をしたりすることを好んでいた。大排気量のバイクを持っていた彼らAJMCのメンバーはベースの中でもエリート達だったといわれる。この頃は暴走族という言葉もなかったが駐車場でエンジンを空吹かしすれば当時彼らの愛用していたトライアンフやBSAなどのビッグツインの排気音は現在のバイクの比ではないのだから食事をしている人達にとってはたまったものではない。オーダーをすればウェイトレスをからかい、ビールを飲んでは騒々しい彼らが静かに食事をしているアメリカ人やその家族から白眼視されても当然だった。しかし一番問題だったのは未舗装の道路が巻き上げる砂ぼこりを全身に浴びた彼らAJMCのメンバーがそのまま店に乗りつけることだった。多くの日本人ライダーから見れば明らかに格好の良いジャンパーやゴーグルなどの服装だったがネクタイにワイシャツというフォーマルな服装で会食をするアメリカ民間のなかでは、ルール遠反のような感じを与えていた。今でいえば、一流ホテルにTシャツで入るようなものだった。雨が降ればずぶ濡れで水滴を落としながら、砂埃がまきあがった日には、玄関でジャンパーを脱いでバタバタとはたき、洗面所では、土や砂やオイルでゴーグルの跡がついた汚い顔を入れ替り立ち替りに、クラブメンバー全員が洗うので、他のお客が洗面所をなかなか使うことができず、中には、シャツを胆いで首や胸まで洗ラメンバーもいて、苦憎も多かったが、その問題児の中には空軍の大尉なども何人かいたという。彼らは、いたって開放的な陽気さで一向に他のお客の視線を気にしなかった。AJMCはこのレストランで、月一回行なうドラムカンレースやジムカーナーなどのコンペティションやワンディ・トリップなどの予定を、ロードキャプテンの提案を元に、全て多数決によって決定していた。毎週金曜田の午後7時から行なわれたこのミーティングは理由の有無に関わらず欠席するとードルのペナルティを課せられるので出席率は高かったという。彼らは集まったペナルティをクラブの運営費に組み込み、AMA(アメリカン・モーターサイクル・アソシエイション)のマークを中心に描いたクラブのワッペンなどを作ったりした。AJMCのクラプマークは初期にはAMAマークを引用していたのだが、後には、日本列島を描いたマークとなり、現在に至っている。
AJMCは、AMA(日本のMFJ、モーターサイクル・フェディレケイション・オブ・ジャパンに相当)の登録ナンバー913番を持つ日本国内では最初のAMA加入クラブだった。レースなどの運當方法もAMA規則に従って行なっていた。今日のレース規定がAMA規定に似た形となっているのは、戦後のレースの黎明期に、AJMCが規則面を含めて多大に関係し援助したからに他ならない。
47年から50年まで、”ババリア”でミーティングを重ねたAJMCは、いよいよ苦惰がつのり、店へ出入り禁止となった。彼らはやむなく日野椿近くの民家を借り、クラブハウスとして使用していた。玄関の上にAJMCの看板を出して、クラプハウス前の広場では、ビール片手のバーベキユー・ミーティングも行なわれた。その後AJMCは49年〜51年に行なわれた目米親書レース(後述)での活躍を認められ、立川ペース内のカマボコ兵舎のひとつをクラブハウスとして使用することを許可されたため、本拠地がベース内に落ち着いた。
| 特異なカマボコ兵舎を背景にしたAJMC | 鎌倉はAJMCにとっては"KAMAKURA"であった。 | ''53年2月にトラを暖気するキャリコ氏 |
ところで、AJMCは日本人の入全も認めていたが、毎週一回の夜7時の、ミーティングや毎月あったワンディ・トリップなどの行事に全部参加するのが条件であり、英全話のネックもあったのだが、それよりは、時間の都合がつかず、入ってもすぐに退会する日本人がほとんどだったという自今でこそ週休2日制だとか公休だとかがとられるのだが、この頃は働くことが優先せざるを得ない時代で、多くの日本人は、そう容易く休みをとれなかったのだ。日光や箱根、伊豆一周などがAJMCのよく行ったツーリング先だった。小田原の近く、神奈川県国府津にあったビールエ場直営のドライブインヘ、ビール飲みたさに何度も足を運んだ彼は、これをビール・ランと名づけてこよなく愛した。
| 1955年の国道1号線小田原へのビールラン | AJMCと箱根ホテル | ||||
東京近辺にある輪入バイク業者のひとつ、バルコムトレーディングがAJMCを招待して行った53年の三浦半島ツーリングは、目的埴の油壷で出された昼食が、メンバー全員の関心の的だった。このツーリングは、バルコムトレーディングの、輪入バイクの大型顧客であったAJMCに対する、販売促進のために行なわれ、参加費、食費、塙土産まで全てバルコムトレーディング持ちで、帰りにはカタログを渡すというものであったが、AJMCのメンパーが何よりも喜んだのが、昼食に出た、”A LOBSTER TEMPRA LUNCH”、エビ天ぷら定食だった。このエビ天のことを中心に書いた記事が星条旗新聞に載ったほど好評だったのだ。エビで鯛を釣るようにバイクが売れたかはわからないが、この頃AJMCに対する販売攻勢は、いろいろな業者によって手を変え品を変えて行なわれていた。雪の中を草津までパイクを連ねて行った“スキ-ラン”や、53年にできたばかりの川ロオートレース場へ見学に行ったり、富士五湖を巡ったりと、関東周辺の名所をAJMCは大方回っていた。AJMCのメンバーがバイクで基地の外へ出るには、どうしても日本語と復雑な道路がネックだったので、彼らのなかには”オンリー”と呼ばれる基地の女を後に乗せて、道を日本人に聞かせたりしていた者も少なくなかったが、58年に横須賀のアメリカ軍基地に立ち寄って三浦海岸へのワンディ・トリップの途中、横浜あった混血孤児の施設、“エリザペス・サンダーホーム”を彼らは尉問していた。進駐軍の落し子であるホームの子供たちに、立川基地内のPXで大量に買い入れたチョコレートやビスケットを贈った。また彼らAJMCは、立川ベース周辺の小中学校が運動会を行なう際に、賞品を提供するなどの活動もしていた。彼らは、このようなかたちのポランティアをクラブの活動に組み入れる事を忘れなかった。
“BUZZZZ”誌という当時のアメリカのモーターサイクル雑誌では、何回も日本の記事にページをさいていたが、同誌の55年2月号にはAJMCの本拠地だった立川ベースの様子が出ていた。そのコーナーは、日本、韓国、沖縄などが一つのセクションになっているのだが、彼らアメリカ人から見れば極東ということで一緒にしたのであろうが、多少の異和感があった。
| BUZZZZ誌 | 日本ライダー紹介記事 | トラのドラッグレーサー |
また54年の11月号では、AJMCの行なったドラムカンレースなどのレポートが写真と共に載っていたが、この写真は横田ベースで見た3冊のアルバムにも貼ってあったので、AJMCのメンバーの誰かが投稿したのだろう。53年の7月号では、日本人ライダーがオートパイと共に紹介されていたが、同じ号の他ページには日本人の女性ライダー達も紹介されていた。朝鮮戦争の際、出撃拠点となった九州の在日アメリカ軍板付ベース周辺の女性達なのだが、おそらく板付ベースにもあったであろうパイククラブのメンバーのオンリー達か基地周辺のバイク屋の娘達かもしれない。アメリカのほかに、オラングやフィリピン、イギリスなどの女性ライダーも紹介されていて楽しいのだが、ポニーテールに半そでの開襟シャツ、そして水玉スカートのアメリカ女性の横に、比べてとても質素な、だが精一杯着飾っている日本の基地の女性の写真が並んであったりすると、胸がしめつけられそうな淋しさを覚えてしまう。AMAのパックアップの役割りも果たしている”AMERICAN MOTORCYCLEING”誌はアメリカ本国のAMAの動向が良くわかるので、AJMCのメンバーは愛読していたというが、AMA女性ライダーの世界グループ結成の呼びかけや、各国の女性メンパーの顔写真付きの紹介があったりして、見ていても楽しい。これらの雑誌に旧車のページがあったのも予想外のことだった.最近のオートバイの世界では、ちょっとした旧率ブームだといわれているが、その旧車とは、ちょうどこの雑誌のなかで新車として紹介されているトライアンフやBSAやノートンなどだ。この55年頃の旧車マニアのおじさんはひとこと、「今のパイクはバイクじゃない!」と断言し「フライホイールむきだしの20年代のバイクこそがバイクだ」と誇らしげに彼は愛車にまたがって写真に写っていた。AJMCはツーリングの他に色々なイベントを行なっていたが、そのひとつにドラムカン・レースがあった。府中キャンプなどの広い空地で行なわれたこのレースは、横倒しにしたドラムカンをパイクで押してゴールさせるという単純なものだったが、横-列に並んだ十数台のバイクが一斉にドラムカンを押す様は、真険な服差しのライダーに反して、どこか間の抜けたおかしさがあったことだろう。一見単純なレースのようだが、ドラムカンを真直“に転がすのは難しく、右へ左へと曲がってしまうのを追いかけていくうちに、AJMCのメンパーたちはかなり興奮したにちがいない。ドラムカンを1個だけ押すのにとどまらず、2個、3個と刷時に押してゴールを競ったり、折り返しのポイントをドラムカンを押しながら膜ったりと、彼らは常にバリエーションを考えていた。
| 関東村府中キャンプでのドラム缶レース | 船橋オートレース場でのドラム缶レース | 池の周りを一周するタイムアタック |
現在は西武球場が近くにある村山貯水池でもAJMCはヒルクライムやタイムアタックレースをやって遊んでいた。ヒルクライムは簡単なトライアル風の遊びで、切りくずしたガケを斜めにトラバースしたり、段差を乗り越えたりして楽しんでいた。今ならば、オンロード・タイプのバイクでこのような事を行なうライグーは稀だが、当時はオフロード車やトライアル車の数もほとんどない状態であったので、AJMCはハーレーやトライアンフ、BSAといった重量車でヒルクライムをやっていた。無謀とも思えるこのヒルクライムだったが、舗装された道路よりも、所々に穴のあいた砂利道の方が多かった当時では、とくにオンロードもオフロードも区別はなかったので、彼らAJMCが気にしていなくても不思議はないのだった。そして彼らは多摩川の水の中をトライアンフで渡ったり、鎌倉にツーリングした時には江の島海岸から海中にバイクを乗り入れたりと、ワイルドな遊びに熱中していたようだ。
| 村山貯水池でのヒルクライム | もうあと一息のヒルクライム | 丘の上で一同に並ぶAJMCのメンバー |
また彼らはジムカーナー・レースでも腕を競っていたが、それはパイロンの代りにコーラやビールの空ビンを等間隔に並べ、ライダーはビンの間をスラロームしながら身を乗り出して、ビンを取り、数メートル先の次の地点に移しかえるというレースだった。片手運転でスラローム、そのうえ足を地面に着uないというこのレースには、タイムを競うジムカーナーとはまた違った難しさがあったという。AJMCのジムカーナー・レースのもうひとつに。スプーン・レース。というものがあった。左手に持ったおたまの上に玉ネギやジャガイモを乗せて、片手運転で8の字を書くような運転をするのだが、先ず玉ネギを落とさないのが先決だった。しかし、それに気在とられて転倒したりと、なかなか神経を使うものだった。スプーン・レースにも他に何種類かあった。そのひとつにはボールをスプーンに乗せて落とさないように走るというのがあるのだが、スプーンを口にくわえて走り、次のライダーがくわえているスプーンへ手を使わずにボールを渡すというのがあった。立川ベース近くの多摩川河川敷などを使ってジムカーナーなどに興じるAJMCの回りでは、日本の子供やおとな達が見物していた。彼らの目には進駐軍としてのイメージよりむしろ、バイクを乗りまわす彼らのカッコ良さの方が強く脳裏に焼きついたにちがいない。それにしてもAJMCのアメリカ兵達の垢抜けた服装にひきかえ、当時の日本人の貧相な様ばかりが目に付く。しかしそれはたった30年前のことだったのだ。常に人目をひいたAJMCの活動のなかでも、55年頃から行なわれたドラッグレースは特に華やかだった。
| '56年調布基地でのドラッグレース | アリエル・スクエア4対トライアンフTR6 | BSA500スターツイン、W1の原型モデル |
敗戦後接収された東京都調布市の調布ベースでは、AJMC主催のドラッグレースが、滑走路やタキシングウェイで開催されていた。多いときには、毎週日曜回ごとに1/4マイルレースの勝ち抜き戦をしていた。いわゆるゼロ・ヨンのことである。在日アメリカ軍や関係者向けに日本で発行されていた新聞”THE PACIFIC STARS AND STRIPES”星条旗新聞にもレ-スの度ごとに記事が出ていた程、このドラッグレースは人気があった。AJMCのメンパーにとっても、ドラッグレースは男の見せどころだったようで、応援や見物に来ていた恋人や友人に少Lでも良いところを見せようと、真険に、そして派手に滑走路へ飛び出して行ったのだ。フィールドでのイベントには必ずコーラとハンバーガーを持って行く、彼らアメリカ人をみて、見物に来ていた日本人の多くが、うらやましい気持ちでいたであろうことは想像がつく。パンとパンの間に牛肉やトマトやレタス、ピクルスをはさみ、ケチャップとマスタードをたらさんばかりにほおばっているのを横目で見ている日本人。その弁当は、良くても粗末なにぎり飯程度だったのだ。立川ベースから都心方面にむけて約10キロほどのところにある調布ベースは、立川ベースの補肋用としてアメリカ軍が接収していたが、現在では東京都所有の軽飛行機用飛行場になっている。この滑走路に隣接して”関東”とよばれていた在日アメリカ軍府中キャンプがあったのだが、現在は、千島列島からグアムまでをカパーする軍用航空管制をおこなっているアメリカ空軍475航空団が地下で府中通信施設を運用している.民間人はオフリミットで、唯一東京消防庁の立入検査の際に係官が入れるが、都心に原爆が落とされても機能するといわれる2ヘクタールの地下施設は、横を走る国道20号線からは何も見えない。ただ広大なキャンプの跡が見えるだけだ。50年代の中期までは、この調布ベースの滑走路は全長が短かく、立川基地の補助として使用されていたこともあって、航空機発着回数は多くなく、ドラッグレースをするのに好都合だった。プロペラ機がファイナル・アプローチに入る前にサイレンが鳴り、レース中のライダーも見物人も一目散に走り逃げ、着陸後に再びレースを続行することもあったという。アリエル・スクウェア4やトライアンフ・タイガー、BSA、スターツイン、ビンセント・ブラックシャドーな.どの当時最連を競った欧州車がー台、もしくは2台で滑走路の上を疾走してゆく.タイムアタックの他に、2台ずつ出走して次々に勝ち抜くやり方も、ドラッグレースではポピュラーだった。見物人もライダーも勝ち抜き戦の方により多くの興奮を見い出していた。
| ノーヘルでワッチキャップだけでもドラッグレースに参加 | トライアンフT110の勇士 | BMWもドラッグレースに参加 |
AJMCのドラッグレースは、ギアの指定は無く、トップギアまで使用しても良い方法だったが、その頃は今とちがって、リアスプロケットの歯数を少なくすれば早いという考え方が普通で、当時のバイクは4速車が主流だったこともあり、3速でめいっぱい引っぱってゴールを通過、もしくは4速に入れたところでゴールを通過していた。1/4マイルを、4速まで全部使いきれることはあまりなかったといわれる。絶好調のトライアンフで15秒から16秒台のタイムで、ゴール通過時の車速150q/h位だった。55年頃の初期の調布ベース・ドラッグレースは、正確に1/4マイルではなかった。スタートとゴールを大体の目測で設定していたので、毎回毎回距離はちがっていた。しかし、初期のドラッグレースはタイムで勝負を競ってはおらず、勝ち抜き形式だったので特に問題はなかった。AJMCに招待された日本人ライダーもAJMCのメンバーと共に調布ベースの滑走路を全カで走っていた。日本人で当時最速を誇った欧州車を持つ人は少なく、ドラッグレースに参加した日本人ライダーの多くは、キャブトンや陸王、メグロといった国産大排気量車だった
| アリエル・スクエア4に彼女を乗せてレースするメンバー | アリエル・スクエア4同士の対決 | BSAゴールデン・フラッシュ |
当時の国産車のなかでは速かったこれらのパイクにまたがった日本人ライダー達は、程度の差こそ有れ、自分のバイクがいちばん速いと思っていたのだが、AJMCのメンバーが走らせる欧州車と競争すると、その差は歴然とするのだった。AJMCの欧州車がゴールに突入した時点で、これら国産車はまだ2/3も走り切っていなかった。排気量別にレースをしていても、全く歯がたたなかった。ゴールに入った国産車のコンディションも性能以上にひどいものだった。オイル上りやオイル下りを起こして、排気にオイルの焼けた煙が混じり、エンジンは焼けてしまい、ガスケットというガスケット全部からオイルを吹き、そのオイルが熱くなったフィンなどに流れて、エンジンの回りには、もうもうと青白い煙が立ち込めていたのだ。たとえ一回目に勝ったとしても二回目、三回目まではエンジンがもつはずもなかった。
勝ち負けはいざ知らず、ただ真直ぐな直線を突走るだけという実に単純な、それでいてエキサイティングなAJMCのドラッグレースだった。滑走路という場所の良さも相成って、僕はうらやましさでいっぱいになってくる。いったい今となっては、どこの空港でドラッグレースができるだろうか。調布飛行場は、54年に一部の民間使用も許可され、73年に、アメリカ軍から東京都に全面返還となったのだが、滑走路のドラッグレースには、やはり50年代の中旬だからこそ可能だったおおらかさがあったような気がする。あとさきのことを考えずに、できることなら参加してみたかったと思えてしまうほど魅カ的だ。
最近では、富士スピードウェイなどのレース場で、時析ドラッグレースが開催されているのだが、派手な配色のレーシングスーツに、とことん金をかけて、ギリギリまで調整や改造をしたバイクでサーキットを走る光景に、AJMCのドラッグレースのあのおおらかさは全くない。ドラッグレースはあくまでも遊び心が全て、あっけらかんとした明るい、単純な草レースだった。革ジャンパーにブルージーンズ、ノーマル車で理屈なしに楽しみ、ハンバーガーやコーラを飲んで犬騒ぎをする。これで決まりだ。ハンパーガーの味覚を日本人に定着させようとしたアメリカの食糧政策の前ぶれだったかどうかは別にして、彼らアメリカ人のかたを持つわけではないが、彼らの方が遊び上手だ。
| 4ポートのアリエル・スクエア4 | BSAスターツイン500cc | トライアンフ・タイガ−カブ |
調布ベースでスタートを切ったAJMCのドラッグレースだが、調布飛行場の民間使用が増加してきたこともあり、57年頃からその舞台を立川ベースや横田ベースヘ移して開催された。立川ベースや横田ベースの滑走路は詞布ステップにくらべて、航空機の発着回数が格段に多く、毎週ことのレースは無理だったが、それでもAJMCはタキシングウェイを使ったりと、楽しむことを考え続けた。公道上でのドラッグレースも非合法ではあったが行なわれた。国道16号線上でのドラッグレースは、踵離を1/4マイルに定めず、1マイルなどの距離を取り、最高速を競ったりもした。彼らは、スタートの合図のチェッカーフラッグや賞品としてトロフィを持っていくなど遊びの小道具にも凝っていた。ヤマハ発動機のRZ350が、同社のロードレーサーTZ350と根本的に異なるように、ロードレースと草レースは体質を異にしているということが、AJMCのドラッグレースを通してわかった。そして、いろいろな草レースの中でも、祭り気分のドラッグレースは、とても魅力的だ。決して追い求めすぎない、いいかげんさを残しておくことが、一番大事な要素だ。遊びなのだ。追い求めるのは閉鎖的なサーキットでやることだ。それは今となっては夢でしかありえないが、実際に具現化されていたのが、50年代に、AJMCがアメリカ軍べース滑走路で行なったドラッグレースだった。しかし、日本人のバイクでの遊び方は、敗戦の痛手から復興しつつあった50年前も今もあまりかわらない。50年代当時、ドラッグレースを行なっていたのはベースのアメリカ兵だったし、彼らの残していったドラッグレースの遊び心は、その後日本人によって継続されることはなかった。50年代が決して良い時代だとは思わない。ただ在日アメリカ軍兵士である彼らが、オフ・デューティーに垣間見せた遊びのかたち、いいかげんさを保ち統けることに、この国は今だに近づけないでいる。AJMCの占いアルバムの中に、ドラッグレース以外のレース写真があった。そのなかの一枚は、数々のトロフィーと賞品がフィールドに置かれている写真だ。写真に写っているポスターに、”日米親善・全日木選手権大会7月16日・9時30分雨天順延多摩川オリンピアスピードウェイ主催・日本MC選手協会・讀賣新聞社、後援・アメリカンオールジャパンMCクラブ東京急行電鉄”と書いてあるのが読めた。AJMCの頭に、わざわざ”アメリカン”とことわりを入れてあるのがおもしろい。
| 表彰を受けるBSA | 1951年船橋オートレース場 | 1949-1950年の多摩川 |
もう一枚の写真には、多勢の人間で埋まった観客席の前をゴールインするバイクと、チェッカーを振る男の人が写っている。後ろにいる観客の日本人は、まだ裕福ではない時代の服装だ。しかし、東京と神奈川の都県ざかいを流れる多摩川の河川敷で、ほんとうにレースがあったのだろうか。河川敷ぎりぎりのところまで家が建ち並ぶ今の多摩川からは想像もつかない。地元の当時を知っている何人もの人に写真をみてもらったところ、写っている場所が、東京急行電鉄の丸子橋付近なのがわかってきた。調べてみると、やはりレース場があった。多摩川スピードウェイという名称のこのレース場では、戦後最初のバイクレースが、敗戦4年目の49年に始まっていた。多摩川スピードウェイは、陸王の第一号車が完成した戦前の1935年(昭和10年)に開設された。その前年には、若者の街として賑わう、東京の吉祥寺の井ノ頭公園にも、井ノ頭モーターサイクルレース場が開設されていた。多摩川スピードウェイは1周が1100メートル、幅員がストレートで20メートルのバイク、自動車専用コースで、当時としては画期的なものだった。河川敷内のため、治水上の問題もあり、簡易舗装しか許可されなかったが、当時の道路事情からみても、デコボコのないコースは、ライダーたちのあいだで評判が良かった。レースは春と秋の2回、第2次大戦突入の前年、1939年5月まで続けられた。観客は当時で、少なくとも5千人は集まり、多摩川レースの開催中には、東京急行電鉄の車両が鉄橋の上で一時停車をして、乗客にサービスしたという、のんびりした時代だったが、戦況悪化の前に見せた妙に静かな4年間だった。敗戦から4年後、AJMCが設立言れて2年目の1949年11月6日、戦後最初のオートバイレース”日米親善・全日本モーターサイクル選手権大会”が開催された。戦争中レースを中断していた多摩川スピードウェイの走路は所々破損していて、設備もなにもかも戦前の面影をとどめていない程に荒れはてていた。レース当日は11月にしては暑いくらいの一日で、多くの観衆が見物にくり出した。この大会の内容は、@AJMC参加の日米親善レースA小型自動車(パイク)の輸出振興と展示B小型自動車諸技術の改善C液体代用燃料の普及キャンペーンなどだったが、なんといっても欧州車やハーレーにまたがるGIたちの模範レースが観客の関心の的だった。この年に発表された経済復興5年計画において要求された自動車による輸送量に対するガソリン消費量の超加は、政府にとって大きな問題となっていた。当時、ガソリンや軽油などは割当て制だったので、一般のライダーはガソリンを購入するのに苦労していた。この年6月末までで、自動二輪は全国で7196台、スクーターはー11500台であった。90%を輸入に頼っていたガソリンが1953年までに予想された不足分は、53年予想消費量の約1/5、年間消費量の24ヵ月分にあたる2百万リットルだった。その不足分を補う為に、代用燃料の使用が促進され始めたのだが、二輪車には木炭化やガス化が無理なので、ガソリンにアルコールや松根油を混入する液体代用燃料の使用が望ましいとされていた。日本人の参加選手は、そのほとんどが戦前からの選手たちで、マシンも、戦時中の供出をまぬがれた戦前のレーサーを修理して出場した。この大会には関西方面からはるばるやって来た鳥村一真氏、高島一男氏、西方義治氏などが、関東の杉田清蔵、和臣兄弟などのライダーと熱い戦いを行ったが、練習中、本番中とも、走路にあいた穴に前輪を落し転倒、骨折などの事故も多かった。JAPや陸王、メグロなどの古めかしいバイクにくらべて、アメリカ兵達の操る大排気量の外国車は多くの観客はもちろん出場選手にもさぞ素敵に見えたことだろう。レースは650t以上、150t未満までを6クラスに分けて、クラス別に出走をし、150t末満100t以上のモータースクーターや100t末満の軽発動機車、三輪車整備競争、三輪車燃料消費競争も行なわれた。
| 5級車決勝レースの手前は杉田清蔵氏と奥は中村亀吉氏 | 猛暑の中のダートを粉塵をあげて疾走するレーサー |
当日はコースを5周走る予選が3回あり、決勝には各クラス12台前後が出走、7周を走った。AJMCのメンバーが操つるダートトラック用ハーレーはやはり直線で早かったが、すぐコーナーに入る多摩川のコースではパワーがありすぎ、中排気量のバイクに乗る日本人ライダーにコーナーで抜かれ、直線で抜きかえす熱いデッドヒートをくりひろげ、観客はその度に興奮した。敗戦から4年目、多くの日本人が食えない時代に、金を払ってレースを見る多くの人がいた。娯楽がなかった時代といえばそうなのだが、少し前までは、敵国だった鬼畜米英の兵隊を見て、胸が高鳴ったり、あこがれたりするのを戦中は統制されていた普通の日本人の姿がそこにあった。ところで、多摩川で行なわれた戦後初のこのレースは、実は”公営ギャンブル・オートレース”の立法化へ向けての一大デモンストレイションだった。決して日米親善が目的ではなかった。AJMCのアルバムには、彼ら中心の写真が多く、”大きな草レース”かと思っていたので、これには驚いた。
戦後のバイク業界は、一刻も早く経営を安定させるために営業を行なってはいたが、ままならなかった。敗戦の次の年、富士重工がラビット・スクーターを売り出し、半年遅れて三菱重工がシルパービジョン・スクーターの販売を開始した。戦前からのメーカーだった陸王、みずほ、宮田製作所、戦後いちはやくバイクを売り出した新明和、昌和、本田技研などがあり、オートバイ業界は細々ながら息を吹き返しつつあった。しかし、工場の大きな所はほとんどが連合軍に接収されていたことと、戦争の後遺症で材料の入手が困難ということも重なり、メーカーの生産能力は低かった。一方消費側は、旧円から新円への移行期でもあり、現金が個人に対しては乏しく、加えて月賦販売がバイクに使われだすには、まだ1年を待たなければならなく、購入能カが非常に弱かった。ガソリンについても同様で、依然として統制がひかれている最中で入手が難しく、かつ、そのガソリンは品質が悪いなど、多くの悪条件の下、業界の歩みが遅かったとしても、なにも不思議はなかった。日本小型白動車振興会の記録によると、本田技研工業の誕生した1948年に、GHQ及ぴ政府機関へ働きかけを行なうために日本小型自動車工業会が設立されていた。小型自動車工業会に加盟する各種のメーカーは、戦前に行なっていたレースは復活させようとしていた。小型自動車工業会が設立されたこの年は、ギャンブルレースである競輪が七月に国会で”自転車競技法”として制定され、次々と全国で公営ギャンブルが開始されだした年でもあった。当初は戦前のように賭けを伴わないバイクレースを企画していた向工業会だったが、大盛況の競輪の成功をなぞり、バイクレースもギャンブル化を柱とした事業への方針をうちだした。こうした背景のもとで、公営ギャンブル・オートレース立法化への一大布石として1949年11月6日に多摩川スピードウェイで、”日米親善・全日本モーターサイクル選手権大会”が開催された。日米親善レースに招待されたAJMCは、このレースを成功裏に終らせようと積極的な参加を行ったといわれるが、彼らの行動とは裏腹に対日講和条約以前でもあったためGHQの心証を得るためと、強力な客寄せ材料としてAJMCは主催者側に利用された形となった。同会を中心とするバイク業界は、1949年8月にこの大全運営だけのために日本自動車競走会を作り、大全の後援は通産省、運輸省、毎日新聞をはじめ自動車業界各団体など合計23団体に及んだ。この大会はバイク業界発展への第一歩として熱い期待を担っていた。しかも日本小型自動車工業会は成功裏に閉会したこの選手権大全を引き連れて、同工業会の音戸のもとにオートレースの立法化を押し進めた。この大会から半年が過ぎた1950年4月28日、小型自動車競走法は国会で可決、5月28日公布即日施行された。その翌月、直ちに千葉県の船橋競馬場においてオートレース場の併設が決定した。ギャンブル・オートレースを積極的に誘致していた船橋市と船橋競馬場のオーナーであった関東レースクラブ(のちの読売ランド)との協議がまとまったのだ。そして10月29日、観衆約3万5千人、出場選手120名で日本初のギャンブル・オートレースはスタートした。その頃のバイク業界は6月に開戦した朝鮮戦争による特需で一時的に活気をとり戻す直前だった。翌年の1951年1月には前年8社だったバイクメーカーは30社になり、総生産量も初めて1万台を超えた。以然として高値の花ながらもバイクは、ようやく一般へと普及する気ざしをみせ始めていた。
朝鮮戦争に伴って在日アメリカ軍立川べースは、北朝鮮へ向けての出撃拠点となっていた。兵隊や軍用資材は全て立川を起点として前線に送り込まれ、戦闘で死亡、負傷した兵士もいったん立川ベースに集められ、それから各地の施設に送られていった。戦況が進展し、ジェット戦闘機や大型輸送機の発着が激しくなるにつれて立川ベースのアメリカ兵の数は増えていった。兵貝増強に共ないA』MCのメンバー数もこの頃が量大だった。戦後初の多摩川でのレースに参加したAJMCは、翌年の50年6月24日にAJMCによる第一回目のレースを同じ多摩川スピードウェイで行なった。しかし観客を動員できず、このレースは失敗した。1ヵ月後の7月16日に再度多摩川で”日米親善・全日本モーターサイクル選手権大会”が行なわれた。主催は日本モーターサイクル選手協全と読売新聞社、後援はAJMCと東急電鉄だった。日本モーターサイクル選手協全は、戦前からのレーサー達を含む関東のバイク選手団体だった。その役員には、東周辺のバイクディーラーや小型自動車業界の社長などが名を連ねていて、前年の第一回目のレースを主催した小型自動章競走会の役員をしていた人も多かった。7月に行なわれたこの日米親善レースは日本モーターサイクル選手協会の主催だったが、AJMCの協カは主催考側の予想を上回るものだった。彼らAJMCは前回の失敗を繰り返さないようにと、FENや星条旗新聞などのメディアに広く宣伝をしたり、関東周辺のアメリカ軍ベースヘの直接な宣伝も怠らなかった。当日は約4万人といわれた観衆が多摩川を埋めつくし、日米親善レースは成功した。AJMCはレースの間にジムカーナーなどのいろいろなアトラクションをもうけて観客をあきさせないように務めた。このレースでの収益金は日本赤十字に寄付され、医療活動への手助けを行った。つい5年前までは日本に焼夷弾を落とし、原爆を爆発させた彼らアメリカ軍の兵士が日赤に寄付を行ない、この大会の1ヵ月前から開戦された朝鮮戦争に出動して行ったとは何という皮肉なことなのだろうか。その後、これらのイベントで対外的な実力をつけたAJMCは、1951年5月13日に船橋オートレース場で”日米対抗・自動軍、オートバイ競争大会”を開催した。立川ベースにはAJMCの他にSCCJ(スポーツカークラブ・オブ・ジャパン)と呼ばれる白動車のクラブもあり、AJMCとSCCJは緊密な関係を保っていたといわれる。スポーツカーレースや、ギャンブルレーサーとアマチュアレーサーの混合レースが行なわれ、アメリカ空軍のブラスバンド隊も大会に華をそえた。このレースの主催は讀賣新聞、後援はAJMC、千葉県、日本赤十字で、観客は2万5千人を数えたといわれる。この日の収益も日本赤十字に渡された。AJMCは1952年5月にも同じ船橋オートレース場で、SCCJ、日本モーターサイクルアマチュアクラブなどと共にアマチュアだけのレースを開催し、その売りあげをオリンピック後援会などに寄付をした。この年にヘルシンキで開かれた第15回オリンピックに、日本は戦後初出場をしたのだった。このレースを最後にAJMCは大イベントを行なわなくなったが、これは53年に始まった名古屋TTレースを皮切りに次々と開催されたレースがあったことも一因だったが、この時期にAJMCのメンバーだったアメリカ兵達が1953年7月の朝鮮戦争停戦によって人幅に移動したからだった。朝鮮戦争の時期に日本に来ていたAJMCのメンバーだったアメリカ兵達は、停戦から1〜2年の間に他のべースに転属となった。本国に戻ったメンバーも多かった。AJMC自体は続いていたが、この時期がAJMCのひとつの転換期となった。AJMCは1955年頃から活動の場をベースの滑走路で行なったドラッグレースに移して行ったのだが、この時期は朝鮮戦争とペトナム戦争の聞の不思議な静けさを持っていた。AJMCの1949年から52年までの一連のイベントは皮肉にも朝鮮戦争がなけれぱ行なわれなかったのかも知れない、AJMCの動きにはアメリカ軍の動向が必ず影を落していた。
参照文献 進駐軍モーターサイクルクラブ(群雄社出版)